じきに自分も頭がおかしくなってしまうのだろう
こんなふうに書くと非常に中二病臭く聞こえるが、マジなんだから仕方がない。
あるいはこう言い換えてもいい。「自分の頭がおかしいことに、突然ふと気がついてしまうのではないか」という不安感だ。
前者の不安感は「正気→狂気」、
後者の不安感は「狂気→正気」、という意識の動きであり、方向は逆だが、正気や狂気といったものが単に相対的なものに過ぎないと考えれば(狂人にとってはいわゆる〝異常〟こそが正常であるという)、結局その二つは同じことであり、つまり、自分の覚えている不安感とは、今の自分の持っている、正常/異常の観念が転覆することに対してのものだと言える。
だから、〝自分は頭がおかしいのではないか〟ではなく、〝自分の頭がおかしくなってしまうのではないか〟という表現になる。
そういった気分があるので、フィクションにしろ現実のニュースにしろ、頭のおかしい人のことを、自分と距離を置いて考えられない。明日は我が身、という怖れが拭いきれない。
世間の人たち、少なくとも自分の周りの人たちは、自らが正常であり続けることに絶対的な自信があるように見受けられるが、どうしてそんな自信が持てるのか不可解である。その自信が揺らぐがために、日々を安定して暮らしていられない。もうほとんど諦めている。
反現場主義宣言(2)−その快感はビデオに映える−
ただ、自分のようなズブのド素人から言わせてもらうなら、映画を自宅で、ビデオで観るなりの良さだってある。そんなことを主張したい者である。私は。
音楽について考えてみる。かつて、〝レコード〟というのは、〝コンサートの代用品〟という扱いだったそうだ(ごめん、その話をどこで聞いたかは忘れた)。だが、今日にそんな捉え方をしている人はいないと思う。コンサート会場で聴く生の演奏にも、部屋のステレオで聴くアルバムにも、それぞれに別種の快感がある。
映画にしても、スクリーンで観たときとビデオで観たとき、別種の快感を覚えるはずではなかろうか?
もちろん、「そもそも音楽と映画とじゃモノが違うんだから、同列には語れない」という反対意見も当然あると思うので、ここは、映画の例として、マッドマックスシリーズを挙げて話をしよう。
シリーズ4作目『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は実際、デカいスクリーンでデカい音量で観た時に、最もポテンシャルを発揮する作品であることは疑いがない。その密度はおそらくシリーズ最高のものと思う。しかしながら、私はシリーズ2作目の『マッドマックス 2』のほうが好みなのである。私の生まれるよりずっと前に公開されたこの作品『マッドマックス 2』を、私はもちろんビデオでしか観たことがないが(もしかしたら、リバイバル上映などあったのかもしれないけれど)、それでも充分に作品の面白さを味わえたものと信じている。というか端的に、マッドマックスシリーズ初期作はビデオ映えする作品なのである。
この〝ビデオ映え〟という感じを言葉で説明するのは非常に面倒くさいのだが、シリーズ第1作目、オリジナルの『マッドマックス』が日本のテレビで初めて放映された際、その放送を見た若者たちが熱狂的に支持したというじゃないか。そしてその後も何度か深夜放送で放映され、人気を博したらしい。
自室、というプライベートな空間に一人きり、チャチなテレビ画面と音響で観る映画というのも、なかなかオツなものである。そしてこの、オツな快感が〝ビデオ映え〟であり、いわゆる〝カルト的〟と称される作品は大抵がビデオ映えするものなのだ。マッドマックス初期のシリーズは、その快感に溢れている。それは「劇場」という公的な場では得難い快感だ。私がシリーズ近作の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』よりも初期作(おもにパート2)の方に思いが向かうのは、その点においてである。
私的な空間でひっそりと味わうことのできるその快感が、〝そんなものは映画の本来の醍醐味ではない〟と言われてしまうなら、仕方ない、自分にはどうやら映画を楽しむことのできる感性が欠けているのだと結論せざるを得ないだろう。
ところで、件の俳優さんはVシネマに関しては、一体どういったお考えなのか伺ってみたいものだ。
[作文]政治の話はしたくない、と駅前で。
男が小脇に携えている色紙の束、その十数枚の色紙すべてに、以下のような文言が、まずい肉筆で、一言一句違わずに書かれていた。
「『政治の話はしたくない』
政治の話はしたくない
自分が無知だとバレるから
政治の話はしたくない
思想がないってバレるから
政治の話はしたくない
右も左もわからないから
政治の話はしたくない
言い争いたくはないから
みんなと仲良くしたいから
政治の話はしたくない、だって
子どもには関係ないじゃない
ケーキを食べればいいじゃない」
路上詩人を自称する、頭の弱いその男は、自信作の束を持参し、駅前へとやってきた。
駅前はいつも以上に人が集っていた。牧歌的な彼は、桜の開花宣言が出た直後の日曜日だからなぁ、と単純に納得しつつ、詩を披露するのに手頃なスペースを探して、あたりの路上を見回した。
そこへ、男と同年代くらいの若者たち数人の集団が通りがかった。集団の彼らは各自、物々しい文言の書き連ねられたプラカードを提げて、それらしい顔つきをしていた。集団には女性も混じっていた。
彼らに対し、思わぬ親近感の湧いた詩人の男は、彼らを呼び止め、先の自らの作を詠唱しはじめた。男は、その作の出来栄えでもって、彼らの感心を集めたかった。
しかし、プラカードの彼らは、訝しげに男を一見すると、息を揃えて、口汚くシュプレヒコールを浴びせながら、詩人の男を小突きまわしだした。
訳がわからないままに小突きまわされながら、ひるんだ男はともかく詠唱するのをやめ、苦し紛れに色紙を彼らに差し出した。だが、集団のうちの一人が、男の差し出す色紙を払いのけた。そしてその、はじき返された拍子に、色紙の端が、詩人の男の目のあたりにぶつかった。
男は咄嗟に顔を引き、目を瞑ったので、眼球に傷がつくことはなかったが、その瞬間に思わず上げてしまった情けない悲鳴を、プラカードの集団の女が笑ったために、男の気はすっかり萎んでしまった。彼らは去っていった。
男はしばらく悄然としていたが、自らを鼓舞し直し、路上の隅で色紙を広げて、道ゆく人々へ向けて詩を詠むことにした。と、じきに彼の周りを警官が取り囲んだ。不意のことに戸惑っている彼を、警官たちは「こんな場所に座り込んで物を売ってはいかん」と言って、呆気なくそこから追っ払った。
にわかに色めき立つ喧騒を背中に感じながら、男はその場を立ち去った。その喧騒に参加することができないのが少し悲しかったが、みんなが何を騒いでいるのか知らない自分は参加しようにも仕方がないのだと思うと、今度は恨めしい気がした。
家路につきながら男は、今日はもう風呂に入ってビールを飲んだらとっとと寝よう、と思った。
映画版『震える舌』−小説の実写映画化と文芸作品の活路–
長編小説を、上映時間2時間ほどの映画にしようとするのなら、やはりどうしても、原作に描かれているパートをいくらか削ることになるだろう。一字一句すべてを映像化しようと試みていては、2時間そこらではとても収まらないはずだ。
小説『震える舌』−媚びとサービス。物を書くこと−
※今どきの小説が苦手だ、などというとジジイ扱いを受けるだろうが、一応私はまだ二十代だ。ギリギリだけど。
そして、ほんとのジジイになったあとで「今どきのなんたらかんたら」などという話をしては、あまりにみじめであろうから今のうち、つまり、実年齢での言い逃れがきくうちに、今どきの小説が苦手な理由を書き留めておきたい。
三木卓『震える舌』を読んだ。不穏さを湛えた文章が凄まじく、主人公が精神のバランスを崩していく描写を読み進むにつれ、その精神状態の覚束なさがこちらにまで移ってくるようで、危なっかしい気分になる。
『震える舌』を読んでいる最中、私は、大岡昇平の『野火』を何度か連想した。
『野火』と『震える舌』はどちらも映画化されており、その評価も高い。だが、私が両者を繋げて考えたのはそういった理由からではない。
上記の二つの小説は、かたや〝フィリピンでの従軍〟、かたや〝娘の破傷風罹患〟と、作者自身の苛烈な実体験に基づいて書かれている。
だがどちらも、実体験に基づいて書かれながら、その体験のルポルタージュ的な面白さによって読み手の好奇心を煽ることに終始しておらず、フィクション/創作物としての強度を、文章によって獲得している。物語において焦点が当てられるのは作者の苛烈な実体験それ自体でなく、そのような事態を作中にて経験する主人公が一体どのように反応するのか、という部分であり、作者の実体験はあくまで小説作品の題材としてしか扱われない。そしてその、強烈すぎる題材のインパクトにも、小説の芯がまったく食い潰されていない、素晴らしくタフで骨太な作品だ。
『野火』、『震える舌』を例に挙げたが、今どきの多くの小説からはこうしたタフさが失われている。スラスラと読み進められるが、その読み易さと引き換えに(というかそれとは、表裏一体なのだが)、文章の読み心地がひどく軽くなっている。ライトノベルがやたらとページ数や巻数ばかりを長大に費やすのは、単に物語がスポンジケーキみたいに膨れているからに過ぎない。翻って、タフな小説の読み心地はスカスカのそれとは違い、栗羊羹のようにぎっしりとした歯ごたえがするものである。しかしなにも、読み応えの軽弱さは、ライトノベルや娯楽小説に限った話ではない。純文学、と称される小説でもそうだ。そういった意味で例えば、中村文則の作品とその文章が私はあまり好きではない。
読み易いのは決して悪いことではないが、そのサービスや配慮はともすると、読み手に対する〝媚び〟へと堕し得る。
媚びへつらいがちな性分の私が断言するが、〝媚び〟というものの陰には、相手に対する見くびりの感情がある。媚びたような文章を不愉快に感じるのは、その感情がこちらに透けているからだ。読み手を楽しませることと、読み手におもねることは違う。繰り返すが、これは「純文学か娯楽小説か」というような議論とは別である。娯楽小説にしたって、江戸川乱歩や山田風太郎の文章からは、読み手にへつらうような気配は感じられない。
いやもっと言うなら、音楽や映画でも、昨今では受け手に媚びたようなものが多く溢れている。
それはまるで、大人が手っ取り早く子供の機嫌を取るためにキャラクターグッズを買い与えるような、そんな浅ましさ……というか、要するに作り手側が、読者や聴衆や観客をナメてんですよね。
これは多分に、自らへの戒めでもあるんだけども。
[感想文]キーファー・サザーランド監督『気まぐれな狂気』
「気まぐれな狂気」、……ってカッコよく言い過ぎだろ。「行き当たりばったりなおとぼけギャング」と言ったほうが当たっている。
彼らは〝気まぐれ〟というよりも単に、〝計画性がない〟だけであって、〝狂気〟じみているのではなく、〝知性に乏しい〟のである。
「『トゥルー・ロマンス』より過激!『レザボア・ドッグス』よりクール!」という謳い文句の時点で、嫌な予感はしていたのだが、鑑賞し終えてはっきりした。たぶんこの映画の宣伝担当者は頭を抱えたのだろう。もし俺がこの映画の宣伝を任されたとしたら非常に困る。
〝一体、この映画をどうやって宣伝したらいいのか。こんなもんただの『トゥルー・ロマンス』と『レザボア・ドッグス』の下手くそなパクりじゃねぇか〟と。
おそらくそうして、何とかかんとかひねり出したのが、先の、いかにもダメそうな謳い文句なのだろう。お察ししますよ。
キーファー・サザーランド監督・出演、ヴィンセント・ギャロ主演……ってことでいいんだろうか。そりゃまあ、ジャックバウワーがメガホンを取っただけのことはあるね。テレビのドラマみたいな安っぽさが全編にひしめいている。ダサいスローモーション、オヤジ臭い音楽の使い方。また、演出ばかりでなく、人物たちの感情さえもひどく安っぽい。あの黒人の刑事は何がしたかったんだ。
そして、思わず笑ってしまう恥ずかしげもないほどに明け透けなパクりだ。パクりというか、『レザボア・ドッグス』を意識し過ぎだろ、ジャックバウワー(笑)。
コインがどうした、トワイライトゾーンがどうしたなんていう無意味な雑談パートとか、いきなり拳銃ぶっ放して取引相手を撃ち殺しちゃったりとか、導入からそんな具合でタランティーノ。一番笑ったのが、レスリー・ゴーア〝涙のバースデイ・パーティ〟をバックに流して拷問するシーン。それ完全にレザボアのアレじゃねぇか!急にレスリー・ゴーアって不自然だよ!まあ、そのちょっと前にジャックバウワーが60年代くらいのレコード掛けて踊ってるシーンもあったけど、基本的にこの映画で使われている音楽とは明らかに毛色が違うんだよ。観ればわかる。ただ単に、レザボア・ドッグスのあのシーンがやりたかっただけなのだと。ていうか、その拷問をする敵役(名前忘れた)のキャラクターにしても『トゥルー・ロマンス』のあいつ(名前忘れた。なんかほら、クリスチャン・スレーターの親父の家に来た、すっげえ怖い人いたじゃんね、あいつ)の感じだし。とにかくこのシーンのダサさがこの映画の駄作っぷりを象徴している。レスリー・ゴーアの曲の止め方、そのタイミングに至るまでがダサい。徹頭徹尾ダッサダサだ。
うわーひでーな、なんて思いながら鑑賞すればまあまあ楽しめるかもしれないが、完全なる時間の無駄であるということも同時に保証する。
付け加えるなら、この映画はギャングたちに人質に取られたカップルへ焦点を絞るべきだったと思う。特にゴードン(カップルの男の方)へ。
ギャング側のカップル(ギャロとその恋人)の〝できちゃったみたい♡〟な件のイチャつき、黒人刑事のパッとしない囮捜査、ジャックバウワーの全然怖くないサイコ感、そんなのは全部排除して、人質に取られた、人畜無害に善良なゴードンの心の中にふと立ちあらわれた、不良への憧れと、その憧れのせいで、無様な振る舞いをしてしまう姿、そこに見所を絞るべきだった。
私のように学生時代、まるで不良でなかった男子ならばきっと共感し得るはず。不良っぽい先輩や同級生から、ちょっと親しげに接せられると何だか自分までカッチョいい悪党になれたような気がして嬉しくなる、その気持ち。
何しろ、タランティーノ作品からパクったようなキャラクターのギャングたちであるので、ジャックバウワーもギャロも愉快で取っつきやすいフランクな人柄なのである。軽口たたきながら一緒にクイズなんかしちゃったりして。(タランティーノ映画の場合はそこからすげえ怖い人物へと変貌するのがエキサイティングなのだが、この映画は終始ずっとただの気のいいギャングたちだった。まじで何なんだ(笑))
ついついワル仲間に加わったような気分で浮かれちゃったゴードンは、恋人のことを〝俺の女〟なんてうっかり口走って彼女から叱られるわ、囮刑事から「何をへつらってんだ」とたしなめられるわ、挙句、ギャングたちにカッコいいところを見せようとして、バーでモメた一般人の喉をナイフで切り裂くわ(ダメじゃん)、踏んだり蹴ったりなのである。
ちなみに、喉を切られた一般男性はジャックバウワーにトドメをさされて死んじゃったんだけど、例の囮捜査の黒人刑事は「トドメをさしたのはお前じゃなくてジャックバウワーだから、お前は何も悪くない」という警察とは思えない理屈でゴードンを放免する。正義ってなんだろうか?
ラストで甘ったるい救済を与えたりせず、ゴードンさんをダークサイドにとことん突き落として、みじめさたっぷりに描いていればもっとマシな映画になったんじゃないですかね。変なカーチェイスとかよくわかんないラブシーンとか要らないし。まあ、そんな感じでした。
あ、でも演技自体はみんな割と良かった気がする。それを見せるための演出とストーリーが酷かったってことなんじゃないでしょうか。知らんけど。
ジャズと文学
『スウィングしなけりゃ意味がない』という佐藤亜紀の小説がある。おれはてっきり村上春樹の『意味がなければスイングはない』(だっけ?なんかあったよねそんな本。読んでないけど)のパロディでつけたタイトルなのかと思っていたんだけど、よくよく調べてみたところ、村上春樹の『意味がなければスイングはない』っていうの自体が、デューク・エリントンの〝スイングしなけりゃ意味ないね〟という曲をモジったものらしく、つまり佐藤亜紀の『スウィングしなけりゃ意味がない』は、とりあえず村上春樹は関係なくて、その上、デューク・エリントンの曲名のパロディですらなくて、原題〝It Don't Mean A Thing (If It Ain't Got That Swing)〟をそのまま引用しただけみたい。
ジャズにも文学にも疎いおれにとってはさながら迷宮のごとしである。しかもその元となったデューク・エリントンの曲名はエリントン自身で付けたものではない、などと言われた日にはもう、産みの親と名付け親との間でたらい回しにされて目を回している育ての親の実子のような気分になってしまう。わけがわからないのだ。
おれがボリス・ヴィアンの小説に、変に憧れを抱いてしまうのはもしかして、このコンプレックスのせいなのか……。