批評することの不可能性こそが批評の作品性を担保する
先日、『ゴッドファーザー』のDVDコレクションを買った。とうとう買っちゃった。
ゴッドファーザー コッポラ・リストレーション DVD BOX
- 出版社/メーカー: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
- 発売日: 2008/10/03
- メディア: DVD
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映画に限った話でなく、何か作品の批評をする際には、その批評をする者は当然ながら、可能な限り客観的であるべきであろう。
少なくとも客観的であろうとするべきである。なぜならば、批評をする、というのは、ある一つの価値観を提示することであって、客観的でない批評というのは単なる主観的な価値観の押し付けに過ぎず、価値観の押し付けは人をひどく不快にさせるからだ。
それでは、ある作品を鑑賞した人間が、一体どこまで客観的になることができるのだろうか。作品の良し悪しを、自らの主観を抜きにして、どこまで正しく判断できるだろう。
つまるところ、それは不可能なことではないかと思うのである。
メジャーキーの音楽を聴いて「明るい曲調だ」と感じること、また、マイナーキーの音楽を聴いて「暗い曲調だ」と感じること。その明暗の感じ方に理屈がつけられないのと同様、結局、作品の良し悪しの感じ方に、主観を抜きにした唯一の正しい感じ方を提示することなどできないのではないか。
ある作品を鑑賞したときにどう感じるのか、その感じ方は人それぞれであり、「正しい批評」というのはあり得ない、だからこそ、批評にはそれぞれ個性があり、そこに作品性が生じる。(批評に作品性を認めるということは当然ながら、すべての批評を平等に尊重する、ということではない。批評活動は作品なのだから、取るに足らないくだらない批評だって存在するし、たまに他人の批評を見聞きしてひどくムカつくことがあるが、それはクソしょうもない映画を観たときのムカつきや、欺瞞的な音楽を聴いたときのムカつきなどと同質のものなのだ)
批評が客観的であろうとすべきなのは、その批評の信頼度を高めるためというよりも、客観的であることをハナから放棄した批評などは作品として面白くないからだ、ということである。
『ゴッドファーザー』のDVDコレクションを買ったという話だ。
実のことを言うとわたくし、傑作と名高い『ゴッドファーザー』を一度も観たことがないのです。
それとこれと何の関係があるのか、と思われるのも当然ですね。今から弁明のほう申し差し上げますので、もう暫しお付き合いいただきたい。
当ブログでここのところ、『批評』と呼ぶほど大層なものでもないが、ちょくちょく映画のことに触れることがある。そしてその度に、自分が映画について書いた文章はあまりにも説得力を欠いている、と感じていたのであります。
そしてその説得力の乏しさは、私が『ゴッドファーザー』を観ていないことに起因するのではないか、と思ったんです。ええ、短絡的な推察ですね。
水木しげるを読んだことのない人間に漫画が語れるか? レッド・ツェッペリンを聴いたことのない人間にロックを語ることなんてできるのか?……と簡単に言えばそういうことです。
『スカーフェイス』も『タクシードライバー』もちゃんと観たし、なんかもういいか、ってなってたんだけども。(『地獄の黙示録』は観たけどあんまり憶えてない)
何しろゴッドファーザーですからね。
『ゴッドファーザー』さえ観てない人間の語るキューブリックやポランスキーについての話なんかに一体、説得力があるだろうか。
というか、語りながら自分でも思う。「おれめっちゃ語ってるけど実際、ゴッドファーザーも観たことないんだよな」と。自分の話は実に薄っぺらだな、と、羞恥すら覚える。
これはもはや、ゴッドファーザーコンプレックスである。ファザコンである。
とにかく、つぎのお正月はゴッドファーザー三部作を観て過ごすことになりそうです。それで多少なりとも面白い文章が書けるようになるといいんですけど。
(ゴッドファーザーを観てないのも一つの個性、と言い張るのはやっぱり無理があるものねえ)