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映画版『震える舌』−小説の実写映画化と文芸作品の活路–

長編小説を、上映時間2時間ほどの映画にしようとするのなら、やはりどうしても、原作に描かれているパートをいくらか削ることになるだろう。一字一句すべてを映像化しようと試みていては、2時間そこらではとても収まらないはずだ。

作り手の意図により、ある部分を切り捨て、またある部分を残し、必要によっては、原作にない部分をオリジナルで新たに付け加える。
そうして出来上がった作品は、原作のエッセンスを的確に抽出した、所謂〝原作に忠実な再現〟というようなものになることもあれば、或いは、原作とはまったく別の代物となるのこともあり、いずれにせよ、「小説を元にして作られた映画を鑑賞する際にはその原作を先に読んでおくべきか否か」、という議論は今後もおそらく解決を見ないであろうから、どちらを先に鑑賞しようが、それは各人の好みと、あとまあ、タイミング次第である。そして無論、必ずしもその両方ともを鑑賞しなくてはならないという法はなく、原作小説のほうだけを読んでもよいし、映画版だけを観てもよい。どちらとも見なくたって当然かまわない。
(ちなみに、原作小説をまったくの別物に作り変えてしまった実写映画の、秀逸な作品の例を一つ挙げるとしたら、私は何よりもまず、『桐島、部活やめるってよ』を挙げる。小説版は正直、いまひとつなこの作品であったが、映画版の『桐島、部活やめるってよ』は大変にクオリティが高く、小説版の出来映えを遥かに凌いでいる。個人的な感想に過ぎないが)

 

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そういったところで、映画版『震える舌』を観た。この作品の場合、私は、まず先に原作小説を読んでから映画版を鑑賞する、という手順を踏んだ。この順序にさしたる理由はなく、まさにただタイミング的にたまたまそうなっただけである。
映画版を鑑賞する前、私は、映画版『震える舌』というのはおそらく、原作小説をすっかり別物へと作り変えて仕上げた類の作品であろうと予想していた。それというのも、映画版『震える舌』は〝トラウマになるほど怖い〟という評判を聞いていたからだ。
小説版の『震える舌』は全体に不穏な雰囲気が流れてこそいるが、いわゆる、恐怖心を煽るような描き方はされていなかった。だから映画版では、破傷風の恐ろしい病態を、ホラー的にデフォルメして描いているのであろう、と想像したのだ。だが実際の映画版『震える舌』はむしろ、原作の物語を忠実に実写映画化した、といった風情であった。たしかに絵面として、口のまわりを血だらけにして悶える昌子の姿は非常にインパクトが強く、怖さを感じるかもしれないが、小説版を先に読んでいて、その後の展開を知っている身としては、昌子に対しては恐怖よりも憐れみが立ってしまう。(だからこの映画に関して、ホラー的な楽しみを得たいのであれば、原作を読まずに鑑賞に臨んだほうがよいかもしれない)
しかし、忠実な実写化、とは言え、やはり変更されている箇所はいくつかある。
例えば、講談社文芸文庫石黒達昌氏の解説でも指摘されているが、小説版において主人公(破傷風に罹患した娘、昌子の父親)は幼少期にジフテリアという感染症に罹り、その時にウマの血清を使用しているために、万が一、昌子の破傷風が彼にうつってしまったら彼はもう血清を使うことができない、というので、主人公である彼はさらに精神的に追い詰められるのだが、映画版においては、そんな主人公の心配は、医師によって「今はヒトの血清で良いものがありますよ」と、ただの杞憂であると一笑に付される。
この変更は、原作が執筆された年代と、映画が制作された年代が異なるためである。同様にまた、細かい変更点としては、終盤、快方へ向かい始めた昌子へ差し入れる品が「ウルスリの絵本」から「ドラえもんの本」に変わっているし、小説版には、主人公である父親が病院から一時帰宅し、昌子の看病で張りつめた気を和らげようと日本酒を熱燗にして飲むパートがあるが、映画版で主人公の飲む酒は、日本酒の熱燗でなく、ウイスキーの水割りに変えられている。
上に挙げたような細部のニュアンスの違いは、作品全体のテイストを左右するものではあるのだけども、とりわけ重大なものでない。それよりも気になるのは、クライマックス、ようやく回復の目処の立った昌子が「チョコパンが食べたい」と訴えるシーンである。
映画版においてこのシーンは、彼らにやっと訪れた〝救い〟として描かれる。一命を取り留めた昌子が自ら食事を求め(物語の冒頭で、破傷風を発症した昌子は食事することを拒む)、まさに回復しつつある、と、実にクライマックス然としたシーンである。しかし、原作の小説版で、昌子の発する「チョコパンが食べたい」という言葉は、〝救い〟というよりも、病により憔悴した彼女が、死から逃れようと何とかしぼり出したものであって、このシーンは、衰弱した少女が生にしがみつこうとしている、〝悲痛さ〟を重く伴って描かれている。
そしてさらに、全体にわたって、登場人物の感情的な面をより強く打ち出して描かれているのも、映画版の特色である。
例えば序盤、主人公夫婦が自宅の仕事部屋で仲睦まじく作業をするシーンなどは、小説版には無く、映画版で付け加えられたシーンだ。
また、映画版における、〝感情的な面〟を殊に顕著に表すのが、主人公の妻、すなわち昌子の母である邦江である。
一向に病状の良くならない昌子の姿を見かねた邦江は、主人公に「あなたと一緒にならなきゃよかった。この子を産まなきゃよかった」と言い放ち、また、いよいよ痺れを切らすと、治療をする医者たちへ「もうこの子に何もしないで」と喚き、刃物(果物ナイフ?)を向ける。このように、映画版では物語の盛り上げ役を買っている邦江だが、小説版ではただひたすら看病に倦み、疲弊していく、といった描写に抑えられている。
また、先に述べた主人公が酒を飲むシーンにしても、映画で彼は、ウイスキーのグラスを一息に呷り、現状を嘆くが、小説では、熱燗をつけて飲んだもののあまり良くなかった、といった程度にしか記されない。つまり、邦江に限らず、映画版『震える舌』における登場人物たちの振る舞いは、小説よりもずっと、情緒の起伏が強調されているのだ。
では、そういった描かれ方をするのは何故か。それは原作の小説が、非常に内省的に書かれているあまり、内面でなく、客観的な視点から主人公たちを映したとき、昌子の病状の重くなっていく以外に、物語内ではほとんど何も起こっていないようにしか映らないからだ。
カメラによる撮影、という方法で制作される〝映画〟というものは当然、第三者的な目線で観察される事態を描くことしか(基本的には)できない。だから登場人物の内的な葛藤は、明示的にも暗示的にも、彼らが顔つきや仕草など、振る舞いで表されたものとしてしか描かれ得ない。(映画版の『震える舌』で主人公のモノローグが多用されるのはそのせいであろう)
しかし小説は、登場人物の内面にじかにカメラを置き、外部からは観察されない、内的にしか起こらないアクションを、じっくりと描くことができる。つまり、「何も起きていない」ことを「何も起きていないままに」描くことが、充分な表現であり得る。
映画とは違い、視覚効果も音響効果もなく、役者の芝居による台詞回しの抑揚もない上に、鑑賞者に忍耐と多量のカロリー消費を強いる〝小説〟という、羅列された文字のみで作られる地味な創作物の活路はそこにしかないのではないか。
 
まあまとめると、他人からしたら本当にまったくどうでもいいようなことをうだうだと連ねただけのものでも、小説ならば、作品になり得るっていうことだ。