子供には関係ない

根気のないプロレタリアート。

小説『震える舌』−媚びとサービス。物を書くこと−

※今どきの小説が苦手だ、などというとジジイ扱いを受けるだろうが、一応私はまだ二十代だ。ギリギリだけど。

そして、ほんとのジジイになったあとで「今どきのなんたらかんたら」などという話をしては、あまりにみじめであろうから今のうち、つまり、実年齢での言い逃れがきくうちに、今どきの小説が苦手な理由を書き留めておきたい。

 

震える舌 (講談社文芸文庫)

震える舌 (講談社文芸文庫)

 

 

三木卓震える舌』を読んだ。不穏さを湛えた文章が凄まじく、主人公が精神のバランスを崩していく描写を読み進むにつれ、その精神状態の覚束なさがこちらにまで移ってくるようで、危なっかしい気分になる。

震える舌』を読んでいる最中、私は、大岡昇平の『野火』を何度か連想した。

『野火』と『震える舌』はどちらも映画化されており、その評価も高い。だが、私が両者を繋げて考えたのはそういった理由からではない。

上記の二つの小説は、かたや〝フィリピンでの従軍〟、かたや〝娘の破傷風罹患〟と、作者自身の苛烈な実体験に基づいて書かれている。

だがどちらも、実体験に基づいて書かれながら、その体験のルポルタージュ的な面白さによって読み手の好奇心を煽ることに終始しておらず、フィクション/創作物としての強度を、文章によって獲得している。物語において焦点が当てられるのは作者の苛烈な実体験それ自体でなく、そのような事態を作中にて経験する主人公が一体どのように反応するのか、という部分であり、作者の実体験はあくまで小説作品の題材としてしか扱われない。そしてその、強烈すぎる題材のインパクトにも、小説の芯がまったく食い潰されていない、素晴らしくタフで骨太な作品だ。

『野火』、『震える舌』を例に挙げたが、今どきの多くの小説からはこうしたタフさが失われている。スラスラと読み進められるが、その読み易さと引き換えに(というかそれとは、表裏一体なのだが)、文章の読み心地がひどく軽くなっている。ライトノベルがやたらとページ数や巻数ばかりを長大に費やすのは、単に物語がスポンジケーキみたいに膨れているからに過ぎない。翻って、タフな小説の読み心地はスカスカのそれとは違い、栗羊羹のようにぎっしりとした歯ごたえがするものである。しかしなにも、読み応えの軽弱さは、ライトノベルや娯楽小説に限った話ではない。純文学、と称される小説でもそうだ。そういった意味で例えば、中村文則の作品とその文章が私はあまり好きではない。

読み易いのは決して悪いことではないが、そのサービスや配慮はともすると、読み手に対する〝媚び〟へと堕し得る。

媚びへつらいがちな性分の私が断言するが、〝媚び〟というものの陰には、相手に対する見くびりの感情がある。媚びたような文章を不愉快に感じるのは、その感情がこちらに透けているからだ。読み手を楽しませることと、読み手におもねることは違う。繰り返すが、これは「純文学か娯楽小説か」というような議論とは別である。娯楽小説にしたって、江戸川乱歩山田風太郎の文章からは、読み手にへつらうような気配は感じられない。

いやもっと言うなら、音楽や映画でも、昨今では受け手に媚びたようなものが多く溢れている。

それはまるで、大人が手っ取り早く子供の機嫌を取るためにキャラクターグッズを買い与えるような、そんな浅ましさ……というか、要するに作り手側が、読者や聴衆や観客をナメてんですよね。

これは多分に、自らへの戒めでもあるんだけども。