子供には関係ない

根気のないプロレタリアート。

ジャルジャルファンの自分は漫才を嫌いになってしまいそう

シュールレアリスティックだの、ミニマリスティックだなど、ついついそんな胡散臭い、こまっしゃくれた言い回しを使って讃えたくなってしまうジャルジャルのネタだが、所謂、お笑いの「ネタ」というものを一個の「作品」だとするのなら、ジャルジャルのネタは、非常によく完成された作品であり、その完成度ゆえに、「漫才」という形式の芸能とは食い合わせが良くないのかもしれない。
というのは、漫才とは、飽くまで「二人の人間の会話劇」という体で展開される芸能であり(人数は二人でない場合もあるが)、人間の会話、というのは当然、示し合わされたように寸分の狂いもなく進められるものでなく、不安定で不完全なものだ。その、不完全さ、を下敷きにした漫才という芸能に、ジャルジャルの完成されたネタを乗せることは、土台、無理なことなのではなかろうか。
漫才の面白み、というものを、ネタの内容と併せて、例えば、咄嗟のアドリブのような、通常会話的な所作の中に見出す向きもあるだろうが、完成され切った作品に、アドリブを差し挟む余地などあるはずもない。アドリブの面白みというのは、謂わばまさに、不完全さの面白みである。そして、ジャルジャルの「ネタ」は、そういった不完全さとは程遠く、完成し尽くされていて、無駄も隙もない。だから、会話劇として評価されづらいことも、わからないではない。
だが、そんな「漫才」という芸能が、ジャルジャルの、稀代にして最高級の「ネタ」を許容し得ない程度の器のお笑いジャンルであるなら、俺は漫才が嫌いだ。


※無論、これは先日のM−1グランプリ2017の結果を受けての記事である。ジャルジャルの順位は6位で、最終決勝には進出できなかった。
ジャルジャルのネタを、『面白いが、同じことの繰り返しになってしまっている。もう少し違った展開を期待した』といったふうな理由で低く評価する意見もあったが、そんなことをしては、せっかくの完成度に水を差すこととなり、ネタの作品性が台無しになってしまうではないかと、私は思う。ちゃんと考えて物事を言って欲しい。
松本人志の「僕は一番面白かったんですけど……」と、我が事のように悔しげな口調での講評が印象的だった。