子供には関係ない

根気のないプロレタリアート。

高円寺で出会った女性演奏家たち

練馬の歌を歌う女性と高円寺で出会ったのは確か、四年近くも前のこと。
新宿の歌を歌う女性とは二年前に高円寺で出会った。その女性とは少しの期間だけバンド活動を共にした。


さて、一昨日。2日前のことだ。
高円寺で、池袋の歌を歌う女の子と出会った。
とあるライブバーにて、その女の子はピアノを弾きながら歌っていた。ちなみにそのライブには私もアコースティックギターの弾き語りで参加していたのだが、それはさておき。
彼女の歌と演奏は、囁きと絶叫の間を、軽快さと重厚さの間を、性急と緩慢の間を、つまり、あらゆる両極端を忙しなく行ったり来たりと運動しているようで、まるで、安定しているのか不安定なのかよくわからないヤジロベエ人形のようだった。
そんな彼女の演奏、歌唱に、私は、自分と非常に近しいものを勝手に感じていた。
ある程度の演奏家であれば、良いのは当たり前で、あとは好みの問題であろう。私は不安定に危うく感じられる演奏が好きなのである。
彼女の歌の中では、誰かから愛されたがっていたり、人が死んだりしていた。
私の歌では、みじめなセックスをしたり、人が死んだりする。そんなところからも、私は彼女に近しいものを感じたのかもしれない。大変恐縮かつ僭越ながら。
ライブ終了後、彼女が私に話し掛けてくれた。
現在、私はライブ会場限定で無料音源CDRを配布しているのだが(是非お声かけ下さい)、そのCDRを欲しいと言ってもらえたのである。(社交辞令かの?)当然ながら私は舞い上がってしまって喜んで、慎んで、お渡ししました。
言い忘れていたのだが、彼女はとっても可愛らしい、ベリーキュートな女の子であって、私は女の子と喋るのが、とりわけ可愛い女の子とあってはなおのこと、得意ではないので、あまり会話ができずに終わってしまった。
それを口惜しく思ったため、今、この文章を書いているわけである。
彼女は私の演奏をどう思っていたのだろうか。彼女も同じように、近しく感じてもらえていたら、それほど僥倖なことはないのだけれど。