子供には関係ない

根気のないプロレタリアート。

佐藤亜紀『天使』の書評……をするには私はあんまりオツムが足らないけどでもそれ以外でがんばる

佐藤亜紀の『天使』を読んだ。氏の著書を読むのは今作が初めてだ。一か月くらいかかってようやく読み終えた。私は実に無学なることけたたましく(要はとってもアホなので)、通読するのに非常に苦労した上、おそらく、物語の内容の半分もまともに理解できていない気がするが、それでも、文章自体がめちゃくちゃかっこよく、また〝感覚〟と称されるサイコキネシスティックな主人公の超能力(?)の描写がとても鮮やかかつ、実感的で、なんだかんだ楽しく読んだ。久しぶりに味わった、濃密な読書体験であった。終盤の、とある男爵の喋りっぷりなどは、大好物である〝品のない〟口語文のひとつの理想形、という具合で、ほんとにイカしてた。シビれた。(あの会話パート、やや説明的すぎるか、と一瞬思ったが、ノンノンノン。すぐに思い返した。あの男爵のしゃべくりを延々と聞いていたい気持ちになってしまった)

 
続編の『雲雀』も早く読まなきゃなー、と考えつつ(いろんな古本屋で探し回って手に入れたぜ)、10年以上も前に発表されたこの、とっぷり濃い口な『天使』という小説を、いや、佐藤亜紀という作家を、今になってようやく読んだ、この事の経緯を、遡ってお話しさせていただきたい。
 
ところで申し遅れましたが、私、物書きを志している者です。とある新人文学賞でも、二次予選まで残ったことあるんですよ、しかも2年連続で。すごくないですか?……というチンケな自慢をしてしまう程度に、低い志で小説を書いておる者です。
で、その2年連続で予選通過した某新人賞に去年なんと、一次で落選してしまったわけです。その時は、はぁ? と思いましたね、ええ。まじかよクソかよ死ねよ、って思ってしまいましたよね、正味な話が。
以前の私であればその時点で「やめだやめだっ、小説なんてっ。芋煮くせぇ」と挫けていたものですが、メンタリティの発達、といってよいかと思います、謙虚さと根気強さを今の私は知らず、身につけていたようです。何しろもうじきで齢30にもなろうとしていますのでね。
そんな、精神性の太さを獲得した私は、ここはひとつ、小説の書き方というものの教えを乞うてみようか、と考えたわけです。かと言って所謂、小説セミナー、とかいうのに通うのも馬鹿らしい話です。みっともないですよ、あんなの。精神の肥え太った私だって、流石にそこまで落ちぶれちゃいません。なので私は、作家の著した指南書により、学びを得ることにしたんです。
谷崎潤一郎文章読本』、大岡昇平『現代小説作法』、安岡章太郎『軟骨の精神』等、私はこれまでは小説本体、作品そのもの、にしかさほど興味を惹かれない人間だったのですが、小説周辺の諸事情、とでも言いましょうか、そういった作品の外側の部分が、作家自らによって詳らかにされていく読み物というのも、なかなかに面白いものです。
もっとも、安岡章太郎『軟骨の精神』は正しくは指南書ではありませんし、大岡昇平『現代小説作法』に至っては〝何か書きたいことがありさえすれば、あとはペンと紙さえあればいいのです〟、〝ぼくは小説作法なんてないと思っているのです〟、と冒頭から宣言されてしまっているので、私の当初の目論見は大きく外れてしまったのですが。
ちなみに補足を加えておくと、指南書や小説論のような書物は、テキストブック的なテキストとして機能することは当たり前のことながら、例文として、色々な作家の作品からの引用も載っており、その文章の美点や難点、またその作家に特有の手法、手癖などが解説されているので(まあわざわざ言うまでもなく、指南書や論文というのはそういう書物のことを指すのですが)、執筆のための学びを必要とされない方々にとっても、ブックガイド的なブックとして用いることが可能でしょう。小説家の手による小説論というのは、それが仮に、論理的に穴だらけの論文であったとしても、その小説家のメンタリティが垣間見られて興味深いものです。たとえ、ただの精神論に過ぎない論理であっても、小説家の精神性に触れることができるという意味で、その論文は意義深いものではないですか。
すっかり補足が長く、蛇のようになってしまいましたので、話を元に戻します。ここにきてようやく、佐藤亜紀です。
しかし、初めに手に取ったのは『小説のストラテジー』という本で、『天使』ではありませんでした。
『小説のストラテジー』を選んだ理由は単純で、帯の〝書き/読むための究極の指南書〟という惹句です。何しろ、究極の、ですから読まない訳にはいきません。
 
でも、小説家の指南書を読む前には、その作家の作品にも一度くらいは目を通しておくべきだろう、と思って買い求めたのが『天使』という小説であった、というわけです。
そして、この『天使』を味わった感想は。今回の記事の頭まで。

 

天使 (文春文庫)

天使 (文春文庫)

 

 

小説のストラテジー

小説のストラテジー

 
 
 

[追記・2018/03/09]
第123回文學界新人賞では無事、2次予選通過していました。3次で落ちていましたけど。これで三度目の2次予選通過です。今回もし1次落ちだったりしたらほんとヤケを起こすところでしたよ。
それにしても、もうそろそろ私にやらせてもらえませんかね?もうじき三十路になるんですよ。

 

 

リンダ・ブレア主演『チェーンヒート』と〝パロディ〟について

※[ある作品を褒めるにせよ、貶すにせよ、別の作品との比較でもって「こちらの作品はこちらの作品と違い、これこれ、こういうふうに優れている/劣っている」というやり方で論じるのは、あまり好ましい手法ではないと感じる。結局、論者の品性と語り口に委ねられることになるが、必然性に乏しい比較論は往々にして、主観的な感想を述べるだけに終始するであろう。と言え、論者自身にその自覚があるのであれば、主観的な感想を述べることが必ずしも悪いことだとは思わないが、何しろ、話題にする作品へ敬意を払う意味でも、作品同士を比較するのであれば、充分に慎重にやるべきである。

以上の前提を踏まえた上での本記事である、ということを予め断っておきます。]

 

『チェーンヒート』という映画を観た。いわゆる〝女囚モノ〟と言われるエクスプロイテーション映画である。調べてみると『チェーンヒート』は女囚モノ映画の中では名のある位置付けの作品であるらしい。この作品を今さら知った、ということからお分りであろうが、私は女囚映画に詳しくない。暇つぶしのつもりで「まあ途中で寝ちゃったらそれはそれで」、といった程度の意気込みで観始めたのだけれど、蓋を開けてみれば思いのほか面白く鑑賞した。DVDパッケージの裏面解説はまさにB級映画感がムンムンと匂い立つようで〝24歳の豊満ボディをフルスロットル!〟だの〝変態趣味の刑務所所長から性欲の餌食に〟、〝レズ!レイプ!殺人!〟だのといった言葉が並ぶ。

また、〝1983年のラジー賞女優賞を受賞〟といった記述もあったので、「どっちの意味で?ねえ、どっちの意味での受賞なの?」と不安と期待とが混紡となったような心持ちで鑑賞に臨んだが、いやいや、(ややオーバーアクトがちなところも含め) 素晴らしい演技でした。とても満足のいく作品であった。

と、『チェーンヒート』を観ている最中、以前にテレビで深夜に放送していた、あるドラマがずっと頭をよぎっていた。

そのドラマがやっていた時間帯は、普段私がテレビをつけているような時間帯でなく、たまたま、一度だけ放送しているのに出くわしてしまったのだが、マジでつまらない上に毎秒毎にイライラが鬱積していくような代物であった。(どうしてこんなに苛つかされるのだろう、とかえって目が離せずに、その回の放送をとうとう最後まで観てしまった。制作者がそういう狙いで作ったのだとしたら、まんまとやられたというものだ。当然ながら、次回放送を観ることなどあり得ないが)

その時の記憶を頼りにあのドラマが何というドラマだったのか調べてみた(当時はムカつき過ぎて調べる気にもならんかったのだ)。

で、そのドラマというのが剛力彩芽主演の『女囚セブン』というドラマであった。そう、そのタイトルから窺える通り、所謂、〝女囚モノ〟のパロディである。

もちろん、このドラマがいくら腐りきっていたとしたって、剛力彩芽はじめ、出演者たちには何の罪もない(女囚役なのに〝罪もない〟というのもおかしな話だね)。むしろ被害者である(女囚役なのに〝被害者〟というのも〜略〜)。それに第一、もうとっくに終了しているドラマに関してあーだこーだ言ってもしょうがないんだが、あの時のイラつきが鮮明に蘇ってきてしまって書かずにいられないので。それにしても、とてつもなく感銘を受けた映画であってもちょっと時間が経つとすっぽりと内容を忘れてしまうような私の欠陥頭脳に、一度観たきりのゴミドラマの記憶を焼き付けてしまうのだから、怒りという感情の恐ろしいことよ。

 

あのドラマの何にそれほどムカついたのか、最初は、おぞましいほどにつまらないギャグとか、或いは、仮にも殺人犯や重罪犯である女囚たちが、悔いる素振りもさほど見せず、その暮らしぶりをあたかもハートウォーミングなテイストで描いているという倫理観の欠片もない演出だとか(『チェーンヒート』の登場人物たちも犯した罪をまるで悔いていないが、彼女らの日々は殺伐としていて、このドラマみたいにへらへらした暮らしをさせてはもらえない)、そんな部分が腹立たしかったのだと合点していた。そして確かにそういった部分だけでも充分にゴミだと切り捨てて然るべきなのだが、今思うに、それ以上にどうしようもないのは、〝女囚モノ〟のパロディでありながら、そのジャンルに対して何ら敬意を払っていない、制作陣の心根が見え透いているということだ。

先に述べた通り、私は女囚映画に対して何の思い入れもないが、そんなことは関係ない。制作者たちのナメた態度がムカつくと言っているのだ。

「要はあれだろ? 女囚同士の絆とか諍いとか、あと看守との癒着とか密告とかさ、そんな感じの要素入れときゃ女囚モノっぽくなるんじゃん? そんで適当にギャグ突っ込んでさ、たまにちょっとシリアスなムードのシーン入れてさ。は? ストーリーの整合性? いーんだよそんなの。ただのパロディなんだからよ」

どうせこんなノリで作ったんだろう。

私の観た回(何回目の放送分かは知らん)を思い出す限りでも、女囚映画からの引用らしきシーンはいくつかあったが(しかし、よくこんなにはっきり思い出せるものだと自分でも驚いている。よっぽどムカついたんだな)、その引用は、ただ単に女囚モノっぽく見せるための小道具としての引用でしかなく、その姿勢はマジでいかがなものなのほんとに。ふざけんなよ。茶番劇というのにも値しない。ひとの作品を何だと思ってんだ?

たしかにエクスプロイテーション映画なんていうのはそもそもが、行儀のいい制作物ではないし、エロシーンと暴力シーンのつぎはぎで観客の目を一時的に悦ばせるだけのくだらない作品だって多いが、だからといって、それを小馬鹿にしながら猪口才に表面的なパロディ(ともホントは呼びたくないんだけどな)でイジっているだけの奴らが、監督だの脚本家だのと一丁前の制作者ヅラをしているのがほんとに腹が立つ。そんなやつらがいるからいつまでたってもドラマにしろなんにしろ、くだんないもんしか出来ないんだからもうやめちまえよ。何もテレビドラマでさすがに、強姦しまくってぶっ殺しまくれと言っているわけではないが、もっと他にやりようあんだろうが。

愛と敬意のないパロディは、他人のフンドシを巻いてクソをちびるようなものである(?)。せめて洗濯してから返却してあげてくれ(??)。

 

チェーンヒート <ヘア解禁版> [DVD]

チェーンヒート <ヘア解禁版> [DVD]

 

 ムカつき過ぎて話が逸れたので、チェーンヒートの詳細な感想はまたそのうちちゃんとやろうかと思います。やんないかもしんないけど。

このごろの日本のポップ音楽(私見ばっかり)

このごろ聴いている音楽の話。

 

以前は日本のミュージシャンの音楽よりも洋楽を聴くことの方が多かったのだけど、というのも単純に日本のCDは値段が高いからね。RADWIMPSのアルバムが3000円、レッチリのアルバムが輸入版で1500円、さあどっち買う?となったらレッチリ買っちゃうのが人の性ってものだ(この二つのバンドを比較したのに他意はないですよ。RADWIMPSレッチリ好きって聞いたような気がしたので)。映画館の入場料金しかり、日本の娯楽文化の中では中抜き業者がいかに幅を利かせているか、ってことでしょうかね。知らんですけども。たぶん私が日本のバンドで、新譜を待望して発売当日に買っていたバンドは、ゆらゆら帝国東京事変くらいだ。どっちも解散してるし。髭-HIGE -とチャットモンチーはちょくちょく聴いてたが。学生時代に流行ってたスーパーカーとかくるりはあんま好みじゃなかったしな。

 

 

まあそんなのはどうでもよくて、2、3年前くらいから、わりと日本の音楽を聴くようになったという話がしたかったのだ。といってもバンドではないが。洋邦を問わず、バンドものはもうほとんど聴かなくなってしまった。

確か、有線でAKLOの曲を聴いたのがきっかけだった気がする。曲はたぶん「Break the Records」だったかしら。

日本のヒップホップの盛り上がりと同期して、日本のポップミュージック全般のクオリティも上がってきたように見える(……っていう言い方はマズイよねやっぱり。クオリティの高いことをやってる人はずっと以前からいたのだろうし。ただ単におれの好みの音楽が増えてきたか、或いは、好みの音楽が俺の目につきやすくなってきた、というだけのことだもんね。主観でごめんよ)。

ともかくそうなってきたのは、歌のメロディだけでなく、リズムやグルーブ、また楽器や打ち込みドラム、サンプリングの音色までも踏まえて音楽を聴くのが当たり前になったからであろう。つまりはリスナー側が変化したということ。

というよりもそういう視点を持たない人は娯楽として音楽自体をほとんど聴かなくなったという側面も大いにあるだろう。今どきの子たちはカラオケとかあんまり行かないらしいしね。だから変化、ではなく、淘汰、というべきかもしれない。

そうした、リスナー人口の減少は無論、シーンの縮小にも繋がるが、まあ全般的にクオリティが上がってきた(という言い方をさせてね、ここではとりあえず)とはいえ、いまだにしつこく存在している不快な音楽が街で垂れ流される機会も少なくなってくると考えるなら、一長一短である。

話が逸れた。リスナーの多くがヒップホップを楽しみ得る耳を持ったことは、ヒップホップ以外のジャンルの音楽、例えば、Suchmosのようなバンドの楽曲が〝当たり前に〟かっこいいものとして受け入れられる要因となったのだと思う。

何しろアイドルが〝当たり前に〟ラップする時代である。しかも超イカしてるし。(これに関してはそれこそ、おれがE TICKET PRODUCTIONにハマってるってだけなんだけど)

そういえばアイドルのラップという意味だと、古くはDA PUMPのラストサビ前のラップパートとかもあったけど、その辺にまで言及し出すとキリがないんで今回は避けます。

ところで先日、フリースタイルダンジョンの司会の人(UZIっていうラッパーさんらしいですね)が大麻所持で捕まったという事件を受けて、多くの音楽リスナーが感じたであろう通り、私としても「あーらら。もったいな」と最初は感じたのだけど、よく考えると、自分がヒップホップで興味深いのは、トラックとラップ(あえてしかつめらしく言うと、詞の韻律)がどう絡み合って作品を形作っているか、という部分であり、昨今流行の、フリースタイル即興ラップ対決、みたいなものは正直くだらないと思っているので、別に件のニュースもどうでもいいことだった。いや、Creepy Nutsとかは好きだけど。音源が良いから。

尚、先に『日本のヒップホップの盛り上がりと同期して、日本のポップミュージック全般のクオリティも上がってきたように見える』と書いたが、あえて〝同期して〟いうふうに表現したのは、あくまでも、日本の音楽シーンをヒップホップが〝牽引している〟とまでは考えていないからだ。私はそこまでヒップホップ贔屓ではない。

ひと昔以上前か、キックザカンクルーとかリップスライムとか売れまくってたけど、やはり当時はまだ、ラップという歌唱法が当たり前のものにはなっていなかったように思うし(日本のポップスチャート内ではやはり異端扱いだったのではないか)、それよりもっと以前の日本語ラップにいたっては「なくなくなくなくなくなくな〜い」とかさ、今となっては恥ずかし過ぎるだろ。聴いているこっちが赤面を禁じ得ない。まあそのダサさにも自覚的であったのであろうけど(なにしろ当時の日本のヒップホッパーってみんなインテリなんでしょ?)、しかしダサいもんはダサいので仕方ない。当時たぶん私はまだ幼稚園児だか小学校低学年くらいで、その頃の音楽シーンに明るくないのであんまり下手なことは言えないけど。

 

取り留めのなさが目に余るので、最近買った邦楽アルバムを1枚紹介して、そろそろいい加減、この記事の締めくくります。

ヒップホップでもロックでもないんだけど、〝spoon +〟というユニット?、というかプロジェクト?の『Dress』というアルバムである。

私はつい先月くらいまでspoon +のことを全然知らなかったのだが、『Dress』はもう4作目のアルバムだそうで、職場の有線で「キングとジャックは取り込み中」という曲と「アイマイベイビ」という曲が近頃よくかかっている。それで知ったのだ。(私はいまだに有線から音楽の情報を仕入れることが多い。旧い人間なのである)

spoon +がどんな音楽をやっているミュージシャンなのかということを、ひどく大雑把に言うと、きゃりーぱみゅぱみゅCHARAをかき混ぜて水曜日のカンパネラのサブカル臭を全体にまぶした感じ、な音楽である。俺ぁ実は弱ぇんだ、こういう過剰にあざといガーリー感によ。

そうそう、私と同世代の人なら憶えてる人もけっこういるはずだけど、昔のクレヨンしんちゃんのアニメのエンディング曲に「月灯りふんわり落ちてくる夜」というのがあって、(私が当時小学生だったので、現在30歳前後の人はわかるんじゃないだろうか)、幼心にもキュンキュン切なく沁みる名曲だった。なんか泣きそうになるんですよ、あの曲。で、あの曲とspoon +の「アイマイベイビ」って何となく雰囲気が似てると思ってたら、「アイマイベイビ」もテレ東のアニメのエンディングテーマに使われているらしい。

そういったわけで、spoon +のアルバム『Dress』(初回盤CDの仕様も洒落てるね)と、クレヨンしんちゃんのいつだかのエンディング曲「月灯りふんわり落ちてくる夜」、おすすめです。

 

Dress

Dress

 

 

思いつきで記事を書いて、まとまりがないのはともかく、だらだらと長くなるのは考えものですね。

反現場主義宣言-はじめに-(1-②)

そもそも、私の掲げる反現場主義などという主張は一体どういった必要により生じるものか、そこからまず話を進めなくてはなるまい。

まどろっこしい説明は抜きにして端的に言ってしまえば、ただの「すっぱい葡萄」というやつである。

人の集まる場所というのは実にストレスフルである。映画館に行けば、ケータイを鳴らす奴、ドリンクの氷をガラガラとかき回す奴、前の座席の背中を足でグリグリする奴、なんか知らんが上映中ずっとモゾモゾしてる奴等々。私はストレス耐性の低いタチなので、周辺にそんな奴らがいるとたちまち、映画に没頭することができなくなってしまうのは勿論のこと、ムカつき過ぎて頭がおかしくなりそうになるのだ。イライラムカムカしてるやばい奴、それ私。

とても楽しみにして観に行った映画で、もしもそんな奴らに出くわしてしまったら、鑑賞を妨げられたら、奴らに殴りかからないでいられる自信が私にはない。正気でいられる感じがしない。

とにかく、他人とは極力接点を持たないようにして生活するのに越したことはないのだ。

人類みんなが他人に干渉することやめればきっと世の中の問題の大半が片付く。

他人はストレスの元であり、ストレスは万病の元である。つまるに他人とは自分を害するものであって関わらずにいるべきなのだ。

だけどそんな僕だって映画を楽しみたいし、音楽を聴いてはしゃぎたい。

人間ぎらいのやばい奴が、他人と接することなしに文化を享受したいという欲求から生じたのが『反現場主義宣言』というものなのです。

私だって営みたいのだ、健康で文化的な生活を。最低限度。

私の主義主張、思想信条はすなわち、涙ぐましい自己欺瞞の成果、といって差し支えありますまい。

「退屈しのぎにネコを殺してやる!」

新春映画スペシャル〝ハーシェル・ゴードン・ルイス上映会〟を開催中。

自宅で。DVDで。

本当はゴッドファーザー三部作を観る予定だったのだが、正月休みだし、アルコールに叩きのめされている脳ミソを稼働することなしに観られる映画がよかったので、狙ったわけでもないのだが、「ゴア映画界のゴッドファーザー」ことハーシェル・ゴードン・ルイスのビデオを垂れ流している。

発泡酒のお供はやはり、チープなゴア映画に限る。

今から7年,8年ほど前、大学に籍だけは置いていたもののほとんど家から出ずに、モラトリアムの延長戦をやり過ごしていた頃のこと。当時の私は、『血のバケツ』だの、『美人モデル 惨殺の古城』だのと、題名を聞くだけでちょっとアレな感じがプンプンと匂ってくるような映画を、退屈しのぎに好んで観ていた。たぶん中二病だったせいだ。

所謂、〝B級映画〟とか〝カルト映画〟とかいわれるような映画で、そんな映画ばかりを観ていると時々は『蠅男の恐怖』(クローネンバーグのほうじゃないよ)や、『ウィッカーマン』(ニコラス・ケイジのほうじゃないよ)、『少年と犬』(少年も犬も死なないよ。画家志望でもないしね)みたいな佳作に当たることもあるが、大体は観ている途中で寝てしまうような退屈な代物であった。退屈しのぎに観ている映画が退屈過ぎて寝てしまうのでは世話がない。

青春の空費である。

私がそんなくだらない時間を過ごしている間、同年代の奴らは女の子の×××に×××したり、自分の×××を女の子に××してもらいながら×××に××××して××なのだと思うと、堪らず嫉妬で気が触れそうになるが、今更そんなことを悔やんだところで、尻の軽い女が寄ってきて私の×××を××してくれるわけでもないし、死にたくなるので、普段は極力そのことを考えないようにして生きています。

 

で、そんな頃に観たものの一つに『片腕マシンガール』という映画があった。

 

片腕マシンガール【初回限定生産 】 [DVD2枚組 ]

片腕マシンガール【初回限定生産 】 [DVD2枚組 ]

 

ハードなゴア描写の馬鹿映画、という感じで、当時わりと話題になった。私はとても楽しみにして鑑賞に臨んだのだけれど、観終わったあとに思い浮かんだのは、「……くそつまんないじゃんか」という感想だった。

見どころといえば、主演の女の子の演技、具体的には、彼女の苦痛に悶える表情や呻き声くらいのもので(あれには興奮を禁じ得ない)、とにかく全体を覆うギャグがきつい。きちい。笑えない。

「血みどろだから」、「下品で不謹慎だから」という意味で笑えないと言っているわけではなく、ギャグ自体が面白くない。小劇団っぽくてダサい。「あまりに馬鹿馬鹿しくて思わず爆笑」みたいな感想をちらほら見かけたが、ほんとにマジで言ってんのかしら? 理解に苦しむ。「ドリルブラ」、「スーパー遺族」とかほんとに面白いと思っているの?(誤解なきよう、強調して言いたいのだが、何も不謹慎で下品だから、という理由で否定するのではなく、そのギャグは単にマジでつまんねぇだろ、と言っているのである)

まあそんな何年も前の映画の話をしても仕方がないのだが、別に誰が見ているわけでもないこんなブログで何を書こうと誰も気にしないだろう。何となく思い出したから書いているだけだ。文句があるなら、私の記憶を触発したH・G・ルイスに言って欲しい。

片腕マシンガール』が賞賛されたのは、海外資本で制作することにより日本映画界の自主規制に阻まれることなくやりたい放題やることができた、という一点に尽きるだろう。

(素人の私は、詳しくは知らないのだけど、こんな血みどろ馬鹿映画の企画にお金を出す制作会社は日本にないんだってさ。クソだね)

そういう点、心意気に関してはたしかに好ましくも思えるし、もう一度言うが、主演の女の子はエロいし、過剰に血が出まくる荒唐無稽にアホくさい映画も嫌いではないのだけれど、ギャグがあんまりにも辛い。

たぶんサービスのつもりで入れているのだと思うけれど、辛いギャグの挿入されている映画は、その時点でちょっともう観ていられない。いたたまれない。このギャグを、「馬鹿馬鹿しすぎて笑っちゃう」などと言える人は、まあ、なんというか、幸せそうで何よりだね、って感じだ。

 

 

 

てか、もっとすごい正直に言うと、この映画を褒めてる人ってなんか、劇団ゴキブリコンビナートが好きな人と同質な感じがして気持ち悪い。

「世間の良識に阿らないワタシ」、或いは、「世間から爪弾きにされて相容れることのできないワタシ」を誇示したがってる人みたいな。

ごめんなさいね、こんな言い方をするつもりはなかったんですけど。結局は好みの問題ですし。ただ、私はあんまり無理でした。

PUNPEEのアルバムがどうせクラシカルなんだろうってことは聴く前からわかってたんだけど

E TICKET PRODUCTIONには驚きましたよ。今年ずっと聴いてた。

E TICKET RAP SHOW(通常盤)

E TICKET RAP SHOW(通常盤)

 

〝ネットで超バズった〟とは、E TICKET PRODUCTION『E TICKET RAP SHOW』のCD帯文であるが、かの「りんねラップ」を作ったE TICKET PRODUCTIONが今年の9月から『ILLNINAL』というシングル連続リリース企画(?)をやるというので、当然ながら、興味津々のチンコびんびんで予約した。届いた。聴いた。はやくアルバムだしてよ。と思った。

 

というか、吉田凜音の次のアルバムはE TICKET PRODUCTIONのフルプロデュースでやってくんないかしら。この際もうミニアルバムでもいいからさあ。

ILLNINAL vol.1(通常盤)

ILLNINAL vol.1(通常盤)

 
ILLNINAL vol.2(通常盤)

ILLNINAL vol.2(通常盤)

 

 来年、『E TICKET RAP SHOW 2』が出るらしい。その話を聞いただけで2018年が待ち遠しくなる。めっちゃ楽しみ。よいおとしを。

批評することの不可能性こそが批評の作品性を担保する

先日、『ゴッドファーザー』のDVDコレクションを買った。とうとう買っちゃった。

 

ゴッドファーザー コッポラ・リストレーション DVD BOX

ゴッドファーザー コッポラ・リストレーション DVD BOX

 

 

 

映画に限った話でなく、何か作品の批評をする際には、その批評をする者は当然ながら、可能な限り客観的であるべきであろう。

少なくとも客観的であろうとするべきである。なぜならば、批評をする、というのは、ある一つの価値観を提示することであって、客観的でない批評というのは単なる主観的な価値観の押し付けに過ぎず、価値観の押し付けは人をひどく不快にさせるからだ。

それでは、ある作品を鑑賞した人間が、一体どこまで客観的になることができるのだろうか。作品の良し悪しを、自らの主観を抜きにして、どこまで正しく判断できるだろう。

つまるところ、それは不可能なことではないかと思うのである。

メジャーキーの音楽を聴いて「明るい曲調だ」と感じること、また、マイナーキーの音楽を聴いて「暗い曲調だ」と感じること。その明暗の感じ方に理屈がつけられないのと同様、結局、作品の良し悪しの感じ方に、主観を抜きにした唯一の正しい感じ方を提示することなどできないのではないか。

ある作品を鑑賞したときにどう感じるのか、その感じ方は人それぞれであり、「正しい批評」というのはあり得ない、だからこそ、批評にはそれぞれ個性があり、そこに作品性が生じる。(批評に作品性を認めるということは当然ながら、すべての批評を平等に尊重する、ということではない。批評活動は作品なのだから、取るに足らないくだらない批評だって存在するし、たまに他人の批評を見聞きしてひどくムカつくことがあるが、それはクソしょうもない映画を観たときのムカつきや、欺瞞的な音楽を聴いたときのムカつきなどと同質のものなのだ)

批評が客観的であろうとすべきなのは、その批評の信頼度を高めるためというよりも、客観的であることをハナから放棄した批評などは作品として面白くないからだ、ということである。

 

 

ゴッドファーザー』のDVDコレクションを買ったという話だ。

実のことを言うとわたくし、傑作と名高い『ゴッドファーザー』を一度も観たことがないのです。

それとこれと何の関係があるのか、と思われるのも当然ですね。今から弁明のほう申し差し上げますので、もう暫しお付き合いいただきたい。

 

当ブログでここのところ、『批評』と呼ぶほど大層なものでもないが、ちょくちょく映画のことに触れることがある。そしてその度に、自分が映画について書いた文章はあまりにも説得力を欠いている、と感じていたのであります。

そしてその説得力の乏しさは、私が『ゴッドファーザー』を観ていないことに起因するのではないか、と思ったんです。ええ、短絡的な推察ですね。

水木しげるを読んだことのない人間に漫画が語れるか?  レッド・ツェッペリンを聴いたことのない人間にロックを語ることなんてできるのか?……と簡単に言えばそういうことです。

スカーフェイス』も『タクシードライバー』もちゃんと観たし、なんかもういいか、ってなってたんだけども。(『地獄の黙示録』は観たけどあんまり憶えてない)

何しろゴッドファーザーですからね。

ゴッドファーザー』さえ観てない人間の語るキューブリックポランスキーについての話なんかに一体、説得力があるだろうか。

というか、語りながら自分でも思う。「おれめっちゃ語ってるけど実際、ゴッドファーザーも観たことないんだよな」と。自分の話は実に薄っぺらだな、と、羞恥すら覚える。

これはもはや、ゴッドファーザーコンプレックスである。ファザコンである。

 

とにかく、つぎのお正月はゴッドファーザー三部作を観て過ごすことになりそうです。それで多少なりとも面白い文章が書けるようになるといいんですけど。

ゴッドファーザーを観てないのも一つの個性、と言い張るのはやっぱり無理があるものねえ)